![]() |
| もっともっと蔡明亮!! 1>2>3 |
![]() ![]() ![]() |
◆「寝ているままでいいんだ」までの道のり 瀬々 でも、映画の中で、セックス描写のところは二人ともものすごい体の動きをしているんですよね。いわゆるリアルではないじゃないですか。ある意味すごく、そういう産業の労働者みたいな意味合いが強いというか。 夜桜 普通の一般的な動きよりも機械的な動きですよね。クスリ漬けにされているのではないか、という想像をさせるような動きで、あんな動きは普通しないですよね。 瀬々 そうですよね、普通はしないですよね。 夜桜 熱意がこもらない限りは、普段はしないじゃないですか。それとはまた別として、人間の機械的な面の表れではないかと思います。 瀬々 でもそれが、逆に夜桜さんやリー・カンションの存在感を出している感じがして、とても面白かったです。 夜桜 その撮影の時は、私は動きながら寝ていることに夢中でした。後で映画を見てみて感じたところではありますけど。 瀬々 普通の映画では、ここは感情はこういう気持ちで、とか、こういう意味で演じて下さい、とか感情説明をやたらとしたりすることも多いんですが、そういうことではなくて、奇妙な動きが逆に存在感を見せているという、不思議な感覚がありました。ものすごく珍しい体験をさせてもらったという感じがしました。 高崎 夜桜さんの場合、後半では、失神して、寝ているシーンがありますけど、そのようなシーンでは、逆に演技するとは違った意味での難しさがあったのではないですか。 夜桜 寝てるだけのシーンでは、カメラがあってスタッフの方が何十人もいる中で「はい、スタート」って始まって進んでいくうちに、演技をしないといけないじゃないんだろうか、という葛藤なども出てきます。寝ているだけのシーンなんですけれども、寝ているだけでいいのかな、とか、こっちに体を動かした方がいいのかな、と頭の中で考えてしまう部分があって。一番最初のテイクが終わる時に「寝ているだけでいいんだ」と、「無我でいいんだ」という指摘を監督から受けました。寝ているだけのシーンなんですけれども何テイクかは撮りましたね。 高崎 寝ているシーンでも結構、撮り直しがあったみたいですね。 夜桜 そうですね。見ている人は、寝ているだけのシーンなら寝てればいいと思ってしまうと思うんですけれど、いざカメラがまわると緊張もしますし。 高崎 ということは、AVの場合、ベットシーンは演技することにわりと慣れているけれども、オフのシーンではあまり演技が要求されないということですか。 夜桜 そうです、オフのシーンは全くの素人と言いますか。 瀬々 やっぱり、芝居というのは緊張されるものなんですか。 夜桜 芝居をしたことがないので、その緊張というのが今回の撮影が初めてでした。最初の頃とかはありのままで撮影に望んでみようというのがあって、実際それで「OK」をもらっていたんですが。それがだんだん日を重ねてストーリーが見えてきて、段階段階を踏んでいくごとに、「芝居しないといけないのかな」と徐々に悩み始めましたね。 ◆フィクションとノンフィクション、そのボーダーに位置するツァイ・ミンリャン作品 瀬々 僕の経験から、プロフェッショナルな部分っていうのはAVも映画も同じと思うんですよね。AVの撮影をする時に、当日に女子が生理になったんです。「擬似でどうか」と言われたんですが、でもAVは本番だと通常信じられてる訳ですよね。それを裏切るのもどうかと思い、なんとかならないかと。そうするといわゆる「海綿」というものを入れてやるんですけれども、「さすがプロ!」というか。なんていうのか、ああいう撮影っていうのは特に男優さんなんかはものすごいなと思いますね。「いい仕事してるな、この人」というか、「ものすごくいい仕事を見せてもらいました」というか。違うんですね、プロフェッショナルのところが、ドラマの撮影での芝居のプロとは、プロの度が違うというか、ステージが違うというか。それがすごく感じたところです。上手く説明できないんですけれど、プロフェッショナルというところは同じでも、立っている位置が違うということはあると思います。それはある種の慣れなのかもしれないけれど、ドキュメンタリーにより近い中で、自分をいかに見せていくかというところでは、ある役が与えられて演じるのではなく自分と近いところで勝負しないといけないというものがありますよね、ビデオ撮影においては。そこと役というもののせめぎあいがあると思います。フィクションだと、役になりきらないといけない、というのがある。しかし、ツァイ・ミンリャン監督の作品というのはそのボーダーというか、「あなたでいいんです」と言うところがあるんですよね。その辺のサジ加減が夜桜さんの悩みはなかったかなと思うんですけれども。ツァイ・ミンリャン監督は、案外「それでいいんじゃないの」というところがあったのではないかと思います。 夜桜 そうですね、そこが難しかったというか、葛藤はやっぱりありました。AVの世界とは全然違うんですね。AVの世界というのは、スタッフさんも五・六人、多くても十人超えないぐらい。映画になると何十人というスタッフさんがいらっしゃって、その部分でも全然違いますし。ぶっちゃけ話になっちゃうんですけど、AVの撮影はあっさりしているんです。男の人の夢を壊してしまうかもしれないんですが、裏側というものは過酷なものであって、現場の仕事が終わったら「はい、お疲れ様でしたー」「どうも、失礼しますー」と言う感じで、お仕事的なもので結構あっさりしているんです。一方、映画となるとそういう部分でも全然違いますよね。感情のこもり方が違ったりします。私も最後、帰るときに号泣してしまったんです。 高崎 それは去りがたい思い、気持ちが極まってしまったからですか。 夜桜 そうですね。始まりから終わりまで、無我夢中で一生懸命という感じで。チェン・シャンチーさんもリー・カンションさんもスタッフの方も皆すごい優しい人ばかりで気を使ってくださって。無名な私にすごく気を使っていただいて。そういうものを思い出して、感情がこみ上げて来ました。帰りたくないな、というのもありました。そういう面も、AVの世界とは全然違いますね。スケールの面以外にも、感情、気持ちの面でも違いますね。 ◆今のAV、台湾のAV 高崎 やはりAVと映画では、ものを作るという面でも違うんですかね。 夜桜 そうですね、AVっていうのは今かなりあって、女優さんも多いですし。 高崎 女優さんのサイクルが早いものですよね。 夜桜 今はもう新作でも際どいラインまで行っていると思うんです。借りて見てくれるお客さんっていうのは、今の日本でいうと、常に新しいものを、常に今まで以上のものを求めてくると思うんですね。時代の流れというのもあると思うんですけど、常に新鮮さを求めてくるので、サイクルは早いですね。 高崎 ツァイ・ミンリャン監督から聞いたんですけど、台湾のAV業界というのは産業としてはアンダーグラウンドな面があって、規模も小さくて、撮影も女優さんが逃げられないように辺鄙な田舎でするらしいんです(笑)。だから、今回は、あえて日本のちゃんとしたしAVの女優さんを連れてきたということみたいです。 瀬々 いわゆる日本のAV業界というのは、向こうではかなり流通されているんでしょうか。確か『青春神話』の中で、ビデオのダビング屋のシーンがありますよね。そこでかかっていたのは日本のアダルトビデオでしたし。そういう意味では結構流通されているのかな、と。AV業界といえば日本という感じなんですかね。 夜桜 日本の真似をしているというのは聞きました。台湾のビデオ業界的には、日本が優れているということで、日本のAVを真似して作ったりとか、日本のものを持ってきて作ったり。台湾は規制が厳しいともお聞きしました。 高崎 台湾でも『西瓜』ほどの大胆な性表現は珍しいと思いますね。 瀬々 ちなみに日本では映倫指定はどうなっているんですか。 高崎 日本ではR-18指定で、ノーカット、無修正です。ですから、日本より厳しい台湾の検閲をくぐりぬけたというのは、かなり画期的だったみたいですね。それと、この映画にはミュージカルシーンがありますけど、本来は、夜桜さんも踊るシーンがあったそうですね。 夜桜 台本の中では、私も踊るシーンがあったんです。10日間のうちの、4日目か5日目には衣裳合わせで、ミュージカルシーンで使う服も作ったんですけれど、日程が押し迫っていて出れなくなってしまったんです。 高崎 残念でしたね。 夜桜 すごく残念でした。ミュージカルのシーンで使われている音楽を初日に「踊りのシーンで使うので聞いておいて下さい」と渡されてから毎日のように聞いていたんですけれども、出れなくてすごく残念でしたね。 ◆『愛のコリーダ』と『西瓜』 高崎 ツァイ・ミンリャン監督からは、夜桜さんにキャラクターの説明というのはなかったのですか。 夜桜 台本に一応役柄が書いてあって、ストーリーに目を通すとき、頭の中でだいたいこういう感じなんだろうな、というのはあったんですけれど。いざ撮影していくと、ツァイ・ミンリャン監督のイメージと台本とはやっぱり違うものがあるじゃないですか。撮ってみてこうした方が良いのではないかというものがあるみたいで。撮っていって決めていくという感じの監督なんだと思いました。 高崎 ツァイ・ミンリャン監督は、昔から、タブーに挑戦した例として、大島渚監督の『愛のコリーダ』をよく挙げていたんですが、『西瓜』も、表現の突出感という点では、『愛のコリーダ』と比較できるんじゃないかという気がしますね。 瀬々 ツァイ・ミンリャン監督はデビュー当時は、ゲイ・カルチャーといわれるホモセクシュアルな部分を扱ってらっしゃいましたよね。それからちょっと身を引くようになって、いわゆる男女ものとして『ふたつの時、ふたりの時間』や『Hole』を扱って。そして、そのセクシュアルな部分として今回はAVを題材として扱っていくということがあると思いますね。でも、大島監督の『愛のコリーダ』はものすごい形式美じゃないですか、すごく美しく撮っている、本番行為の中で美しく撮っているんですけれども、『西瓜』はそれとはニュアンスが違うと思うんです。もっと剥き出しな人間の奇妙さみたいなものをやろうとしているように思うんです。大島監督の時はやっぱり、時代ですよね。日本が右傾化していくという時代の中での引きこもる男女を観念の中で描こうとしている。でも、ツァイ・ミンリャンの映画には観念は出てこない、ダイレクトに体や身体性を描こうとしている。 ミュージカルにしたということもそういうことだと思うんです。いわゆる普通のミュージカルではない、どこか気持ち悪いですよね、そういうところがもっと今な感じがしますね。 高崎 われわれが無意識のうちに見ないようにしている、人間の身体の奇怪さのようなものを、あえて見せられ、突きつけられるような迫力がありますよね。 瀬々 そうですね、そこが一番大きいですね、今回の『西瓜』に関しては。 高崎 夜桜さんは今回ツァイ・ミンリャン監督に出会って、帰国してから、監督の作品を何本かご覧になったんですよね。 夜桜 自分が出演したことによって、いろんな思い出が出来て。監督の作品を見てみたい、という気持ちが大きくなって、何本か見てみました。 高崎 過去の作品を見て、『西瓜』と比べて違いとかを感じましたか。 夜桜 やっぱり、セリフが少ないっていうのが共通点ですよね。それと、映像が美しいこと。見る人によって一つ一つの描写の感じ方が全然違うんだろうな、いろんな捉え方ができるんだろうな、とも思いますし、すごく考えさせるような感じでもありますね。難しい映画ではありますけれども。 高崎 これまで見たことのないタイプの映画ではあるでしょうね。 夜桜 自分が今まで見てきた映画の中で、初めて見るような映画ばかりでしたね。この映画に出演していなかったら、私は多分ツァイ・ミンリャン監督の映画を見ていなかったと思うんです。ハリウッドの作品とは規模の大きさが違ったりもするんですが、でも、自分が出演したということとは別に、監督の作品には伝わる部分があります。自分が出演したからこそ、ツァイ・ミンリャン監督の他の作品を見て、「きっと、ここはこうしているんだろうな」とか、裏側を考えてしまうところもありますね。 |
| もっともっと蔡明亮!! 1>2>3 |