楽日 迷子 西瓜 蔡明亮 ツァイ・ミンリャン   李康生 リー・カンション   監督出演者インタビュー  
   
 

西瓜 物語

 
解説
物語
キャスト/スタッフ
蔡明亮インタビュー
蔡明亮監督プロフィール
 
西瓜
       

カラダってなんだろう?

―蔡明亮監督インタビュー

■分裂する世界をつなぎとめる
映画の世界では、コマーシャルフィルムがアートフィルムに背を向け、アートフィルムの側の人々は、コマーシャルフィルムに見向きもしないという現実があります。こうした状況のなか、今こそ観客を変えるときです。アートフィルムが好きだからこそ、多くの観客に映画館に足を運んでもらいたいという態度、それが重要なのです。今は世界的に、商業的な映画がかかるスクリーンが100あれば、アートフィルムは1スクリーンしかない状態です。いい作品を撮り、かつ努力して、ひとつしかないスクリーンを二つ、三つと増やしていく。そうすることで、徐々に観客を変えていかねばなりません。
台湾の『西瓜』の観客(13万7千人動員)には二種類います。ひとつは、アートフィルムに慣れるように私が時間をかけて育ててきた5万人の観客で、もうひとつは、無修正という点に興味をもった7万人くらいです。こちらは、10年くらい映画館に足を運んでいない、観るにしてもアメリカ映画だけ、という観客たちですが、私はこういう観客に期待を持っています。マスコミでは、映画の内容より、劇中では本当にセックスをしているのかという点に話題が集中しました。しかし、映画を観た後、そうした人々も、そういうシーンの真偽が重要なのではなく、これは人生についての映画だと気づき、作品そのものと俳優たちに敬意を示すようになりました。『西瓜』は、これまでスクリーンでこんな演技を見たことがなかった観客と芸術界の人々に大きな刺激と啓発をもたらしたのです。

■審査“する”映画
セックスというテーマについては、世界中のどこの国でもとり澄ました偽善的な態度をとっています。とても開放的であるかのように見えていたものが、この映画によって、その開放の具合がどの程度なのかをチェックされることになりました。今の台湾の社会も非常にオープンに思われているけど、実際のところは、まだまだ保守的です。そして結局、ベルリン映画祭での受賞と蔡明亮作品であることが考慮され、政府は、この映画をノーカットで公開することを認めました。香港も台湾と同じような結果になったのは意外でした。ですから、面白いのは、この映画が審査されたのではなく、逆に映画がそれぞれの国の開放度を審査することになった点です。ただ、『西瓜』の大胆さは、まだまだ大島渚監督の『愛のコリーダ』を越えていません。世の中は進歩しているように見えますが、『愛のコリーダ』を越えていなくても、まだあれこれと物議をかもし出すのが現状です。

■カラダってなんだろう?
映画が発展していく一方、我々映画人は制限を受けることに次第に慣らされてきているんです。映画作りというのは、創造的な行為であるにもかかわらず、実際我々は、長い時を経て制限を受け続けることに慣れ始めてきました。
ここで考えなければならないのは、映画は観るものなのに、見ることを制限されてしまうということです。目とキャメラの関係を考えると、映画のスクリーンは、観客の窓であるべきですが、その窓に視野を遮るフレームを付けて視野を限定してしまっている。普段私たちは、身体をどのように見るべきかを考えることはほとんどありません。だから、この映画を撮ることで、まずはそのことを考えてみたかったのです。
この映画を作る前、スタッフたちとあるAVのビデオを見ていたら、ちょうど女性器の超アップのシーンで、画面には赤い肉の塊だけが映っていました。そこへちょうどもう一人のスタッフが部屋に入ってきましたが、彼には何が映っているのやら、さっぱりわからなかったのです。私たちの体は肉の塊でできているのだということを認識する一方、人間のカラダというものが、どのように撮られるかによって全く異なる信号を発するものなのだということを実感しました。
今回、自分自身のそのフレームをとっぱらって、性や人生の本質に迫りたいと考え、俳優たちにもスタッフたちにもたいへん過酷なことを迫らなければなりませんでした。そんな中で、我々をインスパイアしてくれたのが、日本から参加してくれたAV女優、夜桜すももさんでした。そのプロフェッショナリズムは我々にとって衝撃であり、その堂々たる態度は尊敬に値すべきもので、皆がそれに勇気づけられました。だからこの映画が本物になったとすれば、日本のAV業界に負うところが大きいのです。

■昆虫のようなねじれた人生
身体を使って生命を表現する、ポルノを利用して人生を語る、それが苦心するところです。この映画が表現したいのは、ねじれた人生なんです。この意味を十分に表現するには、人物の設定と表現処理をマッチさせることが重要でした。登場人物は歪んでいて、その姿は異常でまともな人間には見えません。AV男優をやっている男と、孤独で愛と性に乾いた女の関係、その人生は混乱してねじれているわけです。
この映画の難しさは、ほとんどセリフがなく、言葉で表現できないねじれた感覚を別のもので表現しようとしたことです。これまでの私の映画と撮影の角度が大きく異なり、キャメラは変な位置から人物を撮っています。壁をはさんでふたりを撮ったり、壁越しに演技させたりしていますね。また、俳優の動きも独特です。彼らはしゃべらないし、人間っぽくない。たとえば、チェン・シャンチーは、足を使ってタバコを挟んだり、DVDを取ったりし、リー・カンションも廊下の壁に張りついたり、階段で寝たり、浴槽でセックスをしたりします。そういう動きはまるで、昆虫のようでもあります。このように、ねじれた人生、内在するものをセリフでなく別の表現方法で表そうとしました。

■牢獄を壊せ
ミュージカル場面は、よくある華々しいものとは異なり、音楽も何かしら考えさせるものを盛り込み、現実を切断するように使いました。クライマックスに向けて、ミュージカルシーンを減らし、最後にふたりが互いの真実に気づくというようにもっていったのです。
今の映画のスタイルは、アメリカ映画中心で、あまりにも固定化され、パターン化されています。映画のある種のリズム、雰囲気や音楽、撮影、編集、演技など、これが映画だというパターンができているので、観客はそういうものが映画なのだと思いこんでいます。その固定化が、実は映画をダメにしています。思考することを妨げられているので、人々はだんだんと考えないようになり、パターン化された習慣に慣れてしまっています。我々は実際のところ、牢獄にいるのです。そうではなくて、映画は人々をその牢獄から解放し、人生とは何かという問いを持たせるものであってほしいのです。