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◆ 初期三作の“嘘の魅力”

台湾現代史といえば『悲情城市』は、人物関係がわからないといっていた一部のヨーロッパ人をのぞけば、ほとんどの人から敬愛され、よくできた、ある時期の台湾がどうしても作らなければならなかった映画だと思います。ある意味で、『悲情城市』という名前を挙げておけば、みんな安心するわけです。しかし私はそんなところに安住せずに、なんらかの形でもっと違った侯孝賢を見てみたいと思う。そのためには、初期三作品を見ることは絶対に必要です。
たとえば『悲情城市』のなかで、侯孝賢は、北京語も台湾語もしゃべれない俳優からは、台詞を奪います。それがトニー・レオンですが、実は台湾映画は、1970年頃から80年代にかけてはアフレコが主流でしたからそんなこと関係ないんです。誰もがどんな言葉をしゃべっても、アフレコで北京語にしてしまえば問題ないわけです。事実、歌が流れて画面が次々と変わっていく、『川の流れに草は青々』の最後のシーンはそれにあたっていると思います。学校の子供たちが皆で川にいって、魚をとったりしている。そしてあるところから画面が変わって、赴任していた教師・ケニー・ビーが土地を離れることになる。そして、何人かの子供たちが見送りに駅に行く。親しくなった女の先生も一緒に電車に乗り込む。その電車が走り始める、そしてその電車を追ってわーっと少年たちが線路に平行した道路を走り始める。走る電車の中と少年たちとを交互にとらえる。これを撮れればもう問題なかろうという素晴らしい場面なんですが、そこは同時録音がされておらず、現実音を排して終始歌が流れている。言葉を入れる必要もなかったわけです。初期の侯孝賢作品というのは、何語でしゃべってもいい作品でした。
あるときから、侯孝賢の作品では、それまでの台湾映画でごく普通だった北京語ではなく、台湾の言葉が話され始めます。まさに彼は、台湾語を台湾映画のなかにとり込んだ、最初の映画作家のひとりだったといえます。台湾語の映画にしたいのであれば、同時録音をしなくたって、アフレコでやればいいのですが、実はそのアフレコを侯孝賢は嫌って、実際に台湾語のできる役者たちを集めた。そして、台湾語のできない役者からは台詞を奪うというようなことをやっているわけです。


◆ 野心をこめた『百年恋歌』現代篇

ここでひとつ、ゲームをしてみたいと思います。侯孝賢監督の最も素晴らしい映画は何か、ただし『悲情城市』だけは挙げないという条件をゲームの規則と考えてください。というと、皆、妙に興奮しはじめるわけです。『恋恋風塵』などの自伝三部作がもっていたどこか叙情的な感性は素晴らしいと思います。しかし、私はここで『憂鬱な楽園』と『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『ミレニアム・マンボ』の三作を挙げます。実は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』がどのように優れているかということは、まだ世界的にも充分言われていません。『憂鬱な楽園』も、好きな人はかなりいる。『ミレニアム・マンボ』もこれを無視してはいけないという人は多くいる。しかし、どこがどうよいのかはまだ語られていないのが実情です。今後、彼の映画について語る場合、このあたりが注目すべきところではないかという気がしています。
これからご覧になる方にあまり影響を与えてはいけませんが、『川の流れに草は青々』はどうかゆったりとした気持ちで、他人に対する偏見というものをなくし、自分のわからない言葉が語られているということも忘れ、そのまま受け入れていただきたいと思います。
最初に青い電車が出てきます。学校の登校時で、それにつれて子供たちがいっせいに走り出す。これがただ理由もなく素晴らしい。どうしてこんなに胸が躍るのかわからないのですが、すでに触れたように、最後にもまた電車が遠ざかっていく、その運動感の素晴らしさに酔っていただければ、今日のこの日が、考えておられた以上の幸福を皆さんにもたらすに違いないと思っています。
侯孝賢は"侠"の人で、決して素人さんには悪いことをしない人です。しかし彼が本当のところで何を考えているかというのは誰にもわかりません。彼は今フランスで新作を撮っていますが、この映画作家がいったいどこへいくのかという興味はつきません。しかし、その前に10月21日から始まる『百年恋歌』をぜひご覧ください。この映画の最初の数ショットを見ただけで、またとない緊張感と至福感で、背中がぞくぞくするほどです。
2005 これは三つのエピソードからなっており、1910年代と、60年代と現代の恋物語です。三つのエピソードの男女は、いずれも同じ役者によって演じられていますが、そのいずれもが素晴らしい。にもかかわらず、もっとも侯孝賢らしさがよく出ているのは現代篇だとはっきりと申し上げておきます。1966年のパートに惹かれる人がいるのは、それはまあ素人さんとしてしょうがない。それから、1911年、これは無声映画の形で素晴らしいに違いないのですが、しかし、侯孝賢が真に描きたかったもの、最も大きな野心をこめて描きたかったのは、最後の現代篇のエピソードだといえます。おそらく『憂鬱な楽園』が人々を興奮させなかったように、最後の現代のエピソードは素直に人を興奮させないかも知れません。しかし実は、「侯孝賢の新作は最後がいちばんいい」と言い聞かせつつ、ここはひとつ私の騙しに乗っていただきたい。第一話はとにかくいい。ぞくぞくします。しかし、そんなことは、侯孝賢にとっては朝飯前の話なのです。『フラワー・オブ・シャンハイ』を思わせる第二話にもぞくぞくとした感覚がまるで夢のように広がっていく。だが、第三話は、そのような意味では背筋に震えが走り抜けません。逆に、ああ、どうしたらいいだろう、彼はこれをどう処理するだろうという戸惑いが、見るものを強く映画へさし向けることになる。ここには、侯孝賢的な"侠"の世界が、まがまがしく拡がりだしているのです。 あまり丁寧に見られることのなかった『ミレニアム・マンボ』、『フラワー・オブ・シャンハイ』、『憂鬱な楽園』などを改めて評価するために、これらの作品をその作品にこめられた潜在的な力を受けとめるにふさわしく、侯孝賢の新作『百年恋歌』を見ていただきたい。この『百年恋歌』の第三話こそが真に素晴らしいのだという私の興奮が、この中においでの100分の1の方にでも伝われば、こんなに素晴らしいことはありません。 (採録・構成: プレノンアッシュ)
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