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◆ 映画がもたらす胸の高鳴り
今日、私は、三つの目的をいだいてここに立っております。第一の目的は、皆さん方に『百年恋歌』という侯孝賢の新作を見に行っていただくことです。侯孝賢の名前は日本でもそれなりに有名で、彼の作品はもれなく公開されておりますが、肝心の作品は必ずしも大当たりをしたわけではありません。今回、『百年恋歌』にはぜひとも多くの観客がつめかけてほしい。どうか複数のご家族なりお友達なりを誘い、大挙して見に行っていただきたい。それにふさわしい傑作だと自信をもっていうことができます。二つ目の目的は、現代を扱った彼の作品を見ていただくことにあります。侯孝賢の代表作ともいうべき『悲情城市』は充分すぎるほど有名であり、その周辺で撮られた台湾現代史三部作も比較的知られているし、評価も高い。だが、一方で彼の作品には、あまり知られていない領域があります。それは現代を扱ったもので、たとえば『ナイルの娘』。侯孝賢自身も「あれは見ないでくれ」と言っておりますが、私はその言葉にさからい、三度見て三度とも泣きました。何やら危うい生き方をしている兄を思う若い娘が、健気に台北の街をバイクで飛ばしてゆく姿が何とも痛々しいからです。また、行くあてのない若いやくざ者のバイクの走行は、『憂鬱な楽園』という邦題で公開された《南国、再見南国》でも素晴らしい光景をかたちづくっておりますが、なぜかあまり高い評価をうけていないし、『ミレニアム・マンボ』もしっくり受け止められていない。しかし、これらは『悲情城市』にも劣らぬ優れた映画ですから、この際、どうか見ていただきたいと思います。 三つめの目的は、侯孝賢の初期の三部作を見ていただくことです。これも評価が微妙にわかれる領域で、監督自身も、「『風櫃の少年』から私の映画作家としての人生が始まったのだから、それ以前の作品は私のものではない」とさえ言い切っています。しかし、映画作家は、えてして自分の作品の評価を誤るものなのです。処女作の『ステキな彼女』も、第二作の『風は踊る』も、第三作の『川の流れに草は青々』も、瑞々しさにあふれた素晴らしい作品で、見るものをその場で武装解除せずにはおきません。この三作を見て興奮した私は、彼に「あなたは、あなた自身の無意識を意識によって否定するのか」と問いつめたことがあります。侯孝賢の作品は、強い方法意識に根ざしてはいますが、彼は決して様式の人ではない。どこかに本能的なものが息づいていて、撮っているその瞬間に被写体と自分との新たな関係を作り上げるというか、キャメラがまわっているまさにその瞬間にその場に映画が思いがけなく出現するので、それに立ち会うだけで胸の高鳴りのようなものを感じます。彼としては、「なぜ映画を撮っているのか、映画作家であることはどういうことか」ということに目覚める以前の映画だと思っているようですが、その自覚がいかに間違っているかを確かめるためにも、この初期の三作品はぜひ見ていただきたいと思っております。 ◆ 漢字の反復に宿る力 初期三作品を撮りあげた1983年ごろから、侯孝賢は、新しい仲間たちと映画を作り始めます。名高い女流作家の朱天文が脚本を書くようになり、侯孝賢自身が、彼女と一緒に仕事をするまでは映画を作るということに関してまったく無意識であったと言っています。それから、台湾映画のニュー・ウェイヴを支えた、中央電影公司という映画会社があります。楊徳昌(エドワード・ヤン)といった同世代の監督たちもそこから巣立ちました。たしかに、それ以前の侯孝賢はごく普通の70年代台湾映画の流れの中にいた人であるといえます。具体的には、まずスクリーンサイズがシネマスコープである。また、技法としては、嬉しそうにズームをしたり、パンをしたりしている。そして、背後に流れているのは、ケニー・ビーやフォン・フェイフェイのいわゆる人気歌手の歌であり、歌謡映画と言っていいと思います。『ステキな彼女』が当たったので、その直後にまったく同じキャストで『風が踊る』という歌謡映画を撮っています。この歌謡映画の成り立ちそのものは、ある意味いいかげんで、人と人がどう出会うか、昔会った人とどう再会するかというと、いつもばったりと偶然になんですね。自在といえば、自在、いいかげんといえば、いいかげん。しかしキャメラを向けていくうちに、そこから次々と映画的なある抵抗力が生まれてくる。たとえば『風が踊る』には、ふとドキュメンタリー的なタッチがでてきます。ある盲学校でドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読むシーンがあって、これは物語とはほとんど関係のないはずなのに、実に生き生きとした画面で、まさに撮っていることが嬉しくなって、撮っていることを自分自身の力によって高めようとする感じが見えてきます。
そして私は傑作のひとつだと思っていますが、三作目の『川の流れに草は青々』は、台湾の地方都市の、文字通り川が流れていて草が青々としげっている田舎が舞台ですが、実はこの"青々"というところがポイントです。原題でも"青"という字がふたつ重なっていますが、これが侯孝賢映画のひとつの特徴で、漢字独特の喚起力を、反復によって高めているのです。世の東西を問わず、世界でもっとも美しい題名である『恋恋風塵』の恋恋を旧字で"戀戀"と書かれると、恋というものの深さや奥行きが二倍以上になったような気持ちになる。"草青々"というのも、反復によって緑をより色濃くしていく。『憂鬱な楽園』、すなわち《南国、再見南国》の"南もsouthにあたる南という意味ももちろんありますが、侯孝賢が「南というのは、台湾の南部のことでもあるが、多くアジアにおいて、台湾そのものが南とみなされていた」と言っていたように、"南国"という言葉自体が台湾という意味も含んでいる。そこへ、《南国、再見南国》、「さようならだけども、もう一度会おう」というタイトルをつけたのです。また、『好男好女』も"好"という字が繰り返されています。彼の映画の題名には、ある繰り返しによってもたらされる漢字の喚起力を、スクリーンの上までおしひろげて行こうという意識が見られます。日本映画の題名も最近は非常にカタカナが多くなりましたが、あのように"草は青々"とか"恋恋風塵"とか、ある言葉を繰り返すことによって、見事な喚起力を題名に与え、それに見合った力強い、それでいて押し付けがましいところのない画面を見せてくれる人は、侯孝賢をのぞいて誰もいません。 そのような題名をもった映画を、繰り返しによって作っているわけですが、10月21日から公開される『百年恋歌』の原題は《最好的時光》で、"もっとも素晴らしい時"という意味合いですが、その直前に撮られた『珈琲時光』の"時光"と反響しあっています。侯孝賢に「時光という言葉には、光という意味も含まれているのか」と尋ねたところ、「もうすこし、広い空間のようなものと考えてくれ」と言っておりましたので、これを見ていただくというときには、"時光"という語彙の反復の喚起性をご覧いただきたいと思います。 |
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