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<ニ>であることの愛



では、そろそろこのへんで『愛の世紀』の愛とはどういう愛なのか、それについて考えてみたいと思います。ここでもまた子どもたちがそれをおしえてくれます。「第一部」のおしまいの方に、カール・アマデウス・ハルトマンの交響曲「葬送曲」のコラール(Concerto funebre Choral:Langsamer Marsch)が流れます。このスローマーチにあわせて短いトラベリング・ショットがあり、いったん画面が暗転した後、映画館のシャッターがゆっくりひらいて、その向こうにエドガーの歩く姿がみえます。曲名こそ「葬送曲」ですが、それはゴダールの映画ではついぞ耳にしたことのないような、何かの幕開けやはじまりを告げるような曲です。

 ここでその曲を試聴できます

映画館のシャッターがひらくと、そこに一枚の映画のポスターがあります。エドガーはそれに何かを感じたらしく、わざわざ後もどりしてきて、その映画のポスターをじっと見つめます。アヴニール駅で乗りかけた電車から降りた時と同様、エドガーがこうした行動をとったときは、そこになにか特別の暗号が示されていると考えて、まずまちがいありません。そのポスターには二人組の女の子の顔がみえます。

 

 

 

■前奏曲


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『愛の世紀』より(*一部書きこみあり)

   

 

これは何の映画のポスターかというと、サミラ・マフマルバフというイランの若い女性監督が撮った『りんご』という映画のポスターです(彼女は『カンダハール』や『パンと植木鉢』を撮ったモフセン・マフマルバフの娘さんです)。『りんご』はどういう物語かというと、しつけの厳しい厳格なお父さんにずっと家にとじこめられていた双子の姉妹が、二人で協力して外にでかけ、そこでいろいろな出会いや発見をするという映画です。ポスターに映っていた二人がその姉妹で、この双子の「二人」の「2」という数、あるいは、「二であるということ」、これが重要なのではないかと思うわけです。つまり「第一部」での「3×4」の愛の物語が失敗に終わった後、この「葬送曲」という曲を、いわば「前奏曲」のようにして、この映画がむかったのは「二」の物語であり、このシークエンスは「第二部」の「二の愛」の物語のはじまりを告げているように見えるのです。

 

 

■二であること


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『愛の世紀』より(*一部書きこみあり)

 

 

「第二部」のはじめのほうに、大西洋の荒波にさからって「二隻」の小さな船が海の上にならんで浮かんでいるシーンが出てきます。トリコロール・カラーで塗られたその船は、かつてド・ゴールの呼びかけに応えて「自由フランス」連合軍にかけつけたブルターニュのレジスタンスたちの船を彷彿させます。また「第二部」のおしまいの方に、レジスタンスの祖父母の美しいツーショットがあります。机にむかってアルバムをめくっている祖母を祖父がうしろからそっと抱きすくめ、二人でアルバムをながめるシーンがそれです。突然、音が消え、オレンジ色に染まった空の映像がモンタージュされて、そこを「二羽」のカモメが飛んでいきます。それはハッと息ののむほど美しいシーンです。

これらの「二のショット」に過去と未来のゴダールの映画からリフレインのように響いてくる言葉があります。これがそうです。

「国家の理想とは、ひとつになること。
しかし、個人の夢は、ふたりでいること」

 

 

■国家の理想と個人の夢


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『愛の世紀』より(*一部書きこみあり)

 

 

まず、過去の映画とは、1991年にゴダールが撮った『新ドイツ零年』のことで、未来の映画とは、この『愛の世紀』の後に撮られた『アワーミュージック』のことです。ゴダールは自分の映画のなかでこのことばを二度引用しています。もともとこれは、第二次大戦中、ナチスのファシズムとユダヤ人の虐殺に反対する抵抗運動を行ったために逮捕され処刑されたドイツの大学生ゾフィー・ショルのことばで、このゾフィー・ショルのことは、いまちょうど『白バラの祈り』という映画になって公開されているところです。『新ドイツ零年』には、このゾフィーが兄のハンスとともに、統一されてひとつになったドイツに、まるで亡霊のように現われるシーンがあり、そのシーンにこのことばが引用されます。一方『アワーミュージック』では、レジスタンスの集会への参加をよびかけたレルネルに対してフランス大使がこの言葉を口にします。今回の字幕では「国家の夢は一人のもの、個人の夢は二人のもの」と短く縮めて訳されてましたが、もともとは同じ言葉です。この言葉の意味はいろんなふうに解釈することができますが、ひとつにはまず、国家というものはつねに一つになることを願うが、それに反して個人は二人でいたいと願う、というのがそれです。同じくこれは、国家は人を一人きりにしておこうとするが、それに反して個人は二人でいようとする、というふうにもとれます。いずれにせよ、国家の野望と個人の願望はつねに相反するものであって、「一であること」を求める国家に抗して個人は「二であること」を願うというわけです。かたや『愛の世紀』では、ゾフィーのこの言葉のかわりにバタイユのこの言葉が二度引用されていました。

「国家というが、国家ほど
愛されるものとかけはなれたものはない。
国家と愛の崇高さは対極にある」

ここでは「国家」と「愛」とが対極の関係にあるということが云われていますが、これとさきほどの言葉をあわせ読むと、そこでは「二であること」と「愛」とがむすびつき、この「二であることの愛」は、一なる国家への「抵抗」として存在することになります。そこで、もしこういってよければ、ゴダールが『愛の世紀』の「第二部」で描こうとした「愛」というのは、いわば「国家に抗する愛」であり、国家が求める「一」に対して「二」であろうとする「抵抗の愛」ではなかったのかと思うのです。

そして、かつては「国家」というものが「一であること」を求めてきましたが、いまではその国家を超えたものが「グローバリゼーション」という名のもとに地球を「愛なき一の世界」にしようとしています。そんな「愛なき世紀」のはじまりの年にゴダールは、まるでそれに抵抗するかのように「二であること」とその「愛」を描きはじめたわけです。

 

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