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まず、過去の映画とは、1991年にゴダールが撮った『新ドイツ零年』のことで、未来の映画とは、この『愛の世紀』の後に撮られた『アワーミュージック』のことです。ゴダールは自分の映画のなかでこのことばを二度引用しています。もともとこれは、第二次大戦中、ナチスのファシズムとユダヤ人の虐殺に反対する抵抗運動を行ったために逮捕され処刑されたドイツの大学生ゾフィー・ショルのことばで、このゾフィー・ショルのことは、いまちょうど『白バラの祈り』という映画になって公開されているところです。『新ドイツ零年』には、このゾフィーが兄のハンスとともに、統一されてひとつになったドイツに、まるで亡霊のように現われるシーンがあり、そのシーンにこのことばが引用されます。一方『アワーミュージック』では、レジスタンスの集会への参加をよびかけたレルネルに対してフランス大使がこの言葉を口にします。今回の字幕では「国家の夢は一人のもの、個人の夢は二人のもの」と短く縮めて訳されてましたが、もともとは同じ言葉です。この言葉の意味はいろんなふうに解釈することができますが、ひとつにはまず、国家というものはつねに一つになることを願うが、それに反して個人は二人でいたいと願う、というのがそれです。同じくこれは、国家は人を一人きりにしておこうとするが、それに反して個人は二人でいようとする、というふうにもとれます。いずれにせよ、国家の野望と個人の願望はつねに相反するものであって、「一であること」を求める国家に抗して個人は「二であること」を願うというわけです。かたや『愛の世紀』では、ゾフィーのこの言葉のかわりにバタイユのこの言葉が二度引用されていました。
「国家というが、国家ほど
愛されるものとかけはなれたものはない。
国家と愛の崇高さは対極にある」
ここでは「国家」と「愛」とが対極の関係にあるということが云われていますが、これとさきほどの言葉をあわせ読むと、そこでは「二であること」と「愛」とがむすびつき、この「二であることの愛」は、一なる国家への「抵抗」として存在することになります。そこで、もしこういってよければ、ゴダールが『愛の世紀』の「第二部」で描こうとした「愛」というのは、いわば「国家に抗する愛」であり、国家が求める「一」に対して「二」であろうとする「抵抗の愛」ではなかったのかと思うのです。
そして、かつては「国家」というものが「一であること」を求めてきましたが、いまではその国家を超えたものが「グローバリゼーション」という名のもとに地球を「愛なき一の世界」にしようとしています。そんな「愛なき世紀」のはじまりの年にゴダールは、まるでそれに抵抗するかのように「二であること」とその「愛」を描きはじめたわけです。
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