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愛を讃えないゴダール



でも、それでもやはり、いま終わったばかりの『アワーミュージック』について、いますぐここでお話をするだけの度胸はありませんので、まずは『アワーミュージック』と併映されている『愛の世紀』の方から話をはじめたいと思います。しかもこれまた矛盾するのですが、それは結構つっこんだ話になるかと思います。そうするのにはふたつ理由があります。

まずひとつは、今回の『愛の世紀』が封切り上映ではなく「アンコール上映」だからです。つまり皆さんは過去にすでに一度どこかで、この映画をご覧になっているはずです。ですので、その時のことを思い出してもらうためならば、語ってもいいだろうというのが、ひとつめの理由です。そもそも『愛の世紀』という映画自体が「過去」への旅の物語としてつくられているので、そうしてみたいと思います。

次にもうひとつの理由は、この『愛の世紀』という映画が「二度目からよくなる映画」だからです。もうすこし正確に云えば「二度つづけて見たときによくなる映画」で、一度目に見た時はなんだか分からなかったショットやシークエンスが、二度目に見た時から、にわかに意味をもちはじめてくる、そういうしかけになっている映画なので、今日のお話は、「二度目こそが本番であり、第二部からがはじまりである」この映画をもういっぺん見ていただくためのお話になればと思っています。

 

 

 

 


 

まず『愛の世紀』というタイトルですが、これは日本公開名で、原題は「愛を讃えて Eloge de L'amour」です。なんだかエディット・ピアフの古いシャンソンの曲名みたいですね。おそらく、いまどき「ハーレクイン・ロマンス」でも、これほどストレートなタイトルのついたラブロマンスの小説はないだろうと思います。このタイトルと「予告篇」で流れているケティル・ビヨルンスタとデヴィッド・ダーリングのロマンチックで感傷的な音楽だけを聞くと、さぞやこの映画はドラマチックなラブストーリーの映画なのだろうと、うっかりカンちがいしてしまいそうになりますが、ご存知のとおり、ゴダールの映画のタイトルくらいあてにならないものはなくて、特にストレートなタイトルのものほど用心しなければならず、たいていは思わぬしっぺ返しを喰わされることになります(たとえば『フォーエヴァー・モーツアルト』がそうです)。

実際、この映画の「第一部」をみると、そこで描かれているのは、あるカップルの別離であり、そして主人公のエドガーが真剣にとりくんでいた「愛について」の物語の企画が、結局、失敗に終わってしまうという物語です。そして愛は、映画のリハーサルやカメラテストとしてのみ劇中劇のようなかたちで演じられるだけで、しかも、あろうことか、エドガーは死んだ"彼女"について「幻滅」という言葉すら口にしてしまう始末です。はたしてこの物語のいったいどこが「愛を讃えて」いるのだろうかと、思わずそう云いたくなるような展開で、やはりこのタイトルはアイロニーでしかなく、もうこの世界に愛などどこにもなく、現代という時代はもはやラブストーリーの映画など撮れなくなったのだと、ついそんなふうに考えてしまいそうになりますが、はたしてそうでしょうか。

たとえば「ゴダールの再来」と呼ばれるフランスの映画作家にフィリップ・ガレル(注2)という作家がいます。このガレルが湾岸戦争の後に撮った映画に『愛の誕生』(1993年)という作品があります。ヌーヴェルヴァーグ時代のゴダールの映画を彷彿させるようなみずみずしい映像と音楽をもった作品で、ゴダール作品ではおなじみのジャン=ピエール・レオーなんかも出演していて、「まぁ、いろいろツラいことやキツいこともあるけど、それでもやはり愛とはいいものだな」とひとまずそう思えるような愛の誕生劇になっています。

次に「ゴダールのパートナー」であるアンヌ=マリー・ミエヴィルも『愛の世紀』が制作されていた時期に『そして愛に至る』(2000年)という映画を撮っています。原題は「和解の後に」です。この作品にゴダールはミエヴィルと共に出演していて、ふたりでちょっとくたびれたような夫婦の役を演じています。『愛の世紀』のなかで主人公の"彼女"がアルヴォ・ペルトの「鏡のなかの鏡」という曲をかけようか?と口にするシーンがあり、結局、それはかけられずじまいに終わるのですが、その曲がこのミエヴィルの映画の方で使われていたりするという補完的なつながりもあります。そしてこの映画に登場するゴダールはというと、ハチミツやクッキーなどの甘いモノに目のない食いしん坊のクマみたいで、泣きべそをかいたあと、ミエヴィルに手をつないでもらって部屋をでてゆくシーンなどは、くまのプーとクリストファー・ロビンのそれを彷彿させます。

もし淀川さんがこの映画をみたらきっと「あのゴダールのしぐさのなんとまあ愛らしいこと、可愛いらしいこと、とても七〇歳になる映画監督とは思えませんね、いくつになってもこどもみたいな、この人の人柄がよくでておりましたね」と、たぶん云ったであろうような、なかなかほほえましいところのあるラブコメディの作品です。そしてこの作品も「まぁ、いろいろといさかいやもめごとはあるけど、それでもやはり愛というのはわるくないものかな」とひとまずそう思えるような愛の和解劇になっています。

つまり、こんなふうにゴダールのまわりをみまわしてみただけでも、現代という時代は決して「愛の映画」が撮れない時代ではないわけです。ところがゴダールは、『そして愛に至る』の最後のほうで、「和解の後で」さえもなお、「愛について」、こういう言葉を口にするのです。

 

 

 

 

 

 

 

注2 フィリップ・ガレル
1948年 フランス生まれ。
俳優であった父モーリスの関係で幼少期から映画に親しみ、13歳で8mm映画を、16歳で自立するために学校を辞め16mmの短編映画を監督し、その後、TV番組のディレクターとなる。その後、アンディー・ウォーホールの「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」に参加するニコと出会い、1970年『内なる傷跡』をきっかけに彼女と7本の映画を撮る。1991年、ニコとの別離と死とテーマにした『ギターはもう聞こえない』がヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。そして、2005年新作「Everyday Lovers」で2度目のヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞を受賞する。

 
 
 

 

■「そして愛に至る」組写真(*一部書きこみあり)


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「愛はもろく、苦しんで消える」

 

 

もしこれを淀川さんが聞いたら「でも、やっぱりこの人は悪魔なんですね」と云ったでしょうね。それはともかくも、おそらくこういうこともあって、ゴダールは「もう愛が撮れなくなったのだ」とか、「ゴダールは愛の不能者なのだ」といったことを云う人たちもいるようですが、はてしてそうなのでしょうか。そのへんについて急いで答えを出す前にもう一度、『愛の世紀』をよく見なおしてみたいと思います。

 

 

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