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まず『愛の世紀』というタイトルですが、これは日本公開名で、原題は「愛を讃えて Eloge de L'amour」です。なんだかエディット・ピアフの古いシャンソンの曲名みたいですね。おそらく、いまどき「ハーレクイン・ロマンス」でも、これほどストレートなタイトルのついたラブロマンスの小説はないだろうと思います。このタイトルと「予告篇」で流れているケティル・ビヨルンスタとデヴィッド・ダーリングのロマンチックで感傷的な音楽だけを聞くと、さぞやこの映画はドラマチックなラブストーリーの映画なのだろうと、うっかりカンちがいしてしまいそうになりますが、ご存知のとおり、ゴダールの映画のタイトルくらいあてにならないものはなくて、特にストレートなタイトルのものほど用心しなければならず、たいていは思わぬしっぺ返しを喰わされることになります(たとえば『フォーエヴァー・モーツアルト』がそうです)。
実際、この映画の「第一部」をみると、そこで描かれているのは、あるカップルの別離であり、そして主人公のエドガーが真剣にとりくんでいた「愛について」の物語の企画が、結局、失敗に終わってしまうという物語です。そして愛は、映画のリハーサルやカメラテストとしてのみ劇中劇のようなかたちで演じられるだけで、しかも、あろうことか、エドガーは死んだ"彼女"について「幻滅」という言葉すら口にしてしまう始末です。はたしてこの物語のいったいどこが「愛を讃えて」いるのだろうかと、思わずそう云いたくなるような展開で、やはりこのタイトルはアイロニーでしかなく、もうこの世界に愛などどこにもなく、現代という時代はもはやラブストーリーの映画など撮れなくなったのだと、ついそんなふうに考えてしまいそうになりますが、はたしてそうでしょうか。
たとえば「ゴダールの再来」と呼ばれるフランスの映画作家にフィリップ・ガレル(注2)という作家がいます。このガレルが湾岸戦争の後に撮った映画に『愛の誕生』(1993年)という作品があります。ヌーヴェルヴァーグ時代のゴダールの映画を彷彿させるようなみずみずしい映像と音楽をもった作品で、ゴダール作品ではおなじみのジャン=ピエール・レオーなんかも出演していて、「まぁ、いろいろツラいことやキツいこともあるけど、それでもやはり愛とはいいものだな」とひとまずそう思えるような愛の誕生劇になっています。
次に「ゴダールのパートナー」であるアンヌ=マリー・ミエヴィルも『愛の世紀』が制作されていた時期に『そして愛に至る』(2000年)という映画を撮っています。原題は「和解の後に」です。この作品にゴダールはミエヴィルと共に出演していて、ふたりでちょっとくたびれたような夫婦の役を演じています。『愛の世紀』のなかで主人公の"彼女"がアルヴォ・ペルトの「鏡のなかの鏡」という曲をかけようか?と口にするシーンがあり、結局、それはかけられずじまいに終わるのですが、その曲がこのミエヴィルの映画の方で使われていたりするという補完的なつながりもあります。そしてこの映画に登場するゴダールはというと、ハチミツやクッキーなどの甘いモノに目のない食いしん坊のクマみたいで、泣きべそをかいたあと、ミエヴィルに手をつないでもらって部屋をでてゆくシーンなどは、くまのプーとクリストファー・ロビンのそれを彷彿させます。
もし淀川さんがこの映画をみたらきっと「あのゴダールのしぐさのなんとまあ愛らしいこと、可愛いらしいこと、とても七〇歳になる映画監督とは思えませんね、いくつになってもこどもみたいな、この人の人柄がよくでておりましたね」と、たぶん云ったであろうような、なかなかほほえましいところのあるラブコメディの作品です。そしてこの作品も「まぁ、いろいろといさかいやもめごとはあるけど、それでもやはり愛というのはわるくないものかな」とひとまずそう思えるような愛の和解劇になっています。
つまり、こんなふうにゴダールのまわりをみまわしてみただけでも、現代という時代は決して「愛の映画」が撮れない時代ではないわけです。ところがゴダールは、『そして愛に至る』の最後のほうで、「和解の後で」さえもなお、「愛について」、こういう言葉を口にするのです。
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