| ゴダールが自らに問い続ける問題
こんにちは。今日はこの場にお集まりいただきありがとうございます。今しがた皆さんがご覧になった『アワーミュージック』とジャン=リュック・ゴダールについてひとことということなので、短い時間ですが少しばかりお話しできればと思います。
今、私は講義をする教授然として話を始めようとしているわけですが、私自身、こういうポジションをあまり好まないということを別にしても、ゴダールがこれまでに築き上げた膨大な仕事を前にして、それを壇上の高みから《論じる》ようなことは到底出来ることではありません。彼の膨大な仕事と言うとき、それは単に彼が映画を撮り始めてからの話ではなく、彼自身よく口にすることですが、彼はカメラを操作できる以前から映画を作っていた、つまり「カイエ・デュ・シネマ」誌における批評活動を含めてのことです。ですから、今日は、彼の作品が林立する巨大な森の中に、小さな道を新たにつけることだけをめざします。もちろん、その森の中にはこれまですでに数多くの道が存在しているわけで、それらに比べて勝らずとも劣らないような道になればと願っています。
しばしば言われることで、偉大なアーティストが創り出す作品は毎回同じものだという考えがありますが私はそうは思いません。偉大なアーティストの仕事をそんなふうにくくってしまうのは安易すぎると思います。そうではなく、彼らが作品を生み出すたびに、シネアストで言えば映画を撮るたびに、新作は彼らの過去の作品全体について何かを語っているはずだと私は考えます。彼らの新作は、ある意味、過去の作品全体の再考を促し、その再考をある程度うまく成功させているわけです。ですから、私にとって『アワーミュージック』の長所のひとつは、ゴダールが批評家として映画監督として築き上げてきた全作品、彼の芸術全てに関する新たな問いかけになっている点なのです。
ゴダールの映画に対する姿勢と実践はヌーヴェルヴァーグの優秀な同輩に比べても、かなり特殊です。彼は、ほとんど誰も思いもつかなかった問題を自分自身に問いかけたのです。その問いとは、馬鹿げているととられかねないような問いですが、「映画とは何の役に立つのか」というものです。
ほとんど例外なく全てのシネアストは何の疑問も持たずに映画を作り、映画が何の役に立つかなどとは考えないものです。もちろん、誰もが何かを生み出そうという姿勢のもとに映画を撮り、作品の中には非常に大胆で冒険的で野心的なものもあれば、どちらかというと保守的で凡庸なものもあります。ただ、映画を作りながら「映画とは何の役に立つのか」という問いかけをし続けてきた人というのは非常に稀です。そう、50年以上もこの問いかけを維持し続けてきたのは、おそらくゴダール1人ではないでしょうか。
ジャン=リュック・ゴダールの映画作りにおいて非常に感動的で美しいと思うのは、彼はこの問いかけに対していくつもの答えを提示してきたわけですが、それらの答えが互いに矛盾しあっている点です。彼はついぞ唯一絶対の答えには到達していないのです。ある作品でそれらしき答えを見つけたかと思うと、その次作で即座に相反する答えを提示してみせる。ただ、同じ問いに対して作品ごとに様々な答えを軽妙かつ巧みに用意したとしても、そこにゲーム感覚があるわけではなく、単なる知的トレーニングのつもりもなく、むしろ彼のそうした態度はほとんど宗教的意味合いの“探求”に近いものです。その探求には苦しみや痛みが伴い、彼の全作品にはその苦悩の痕跡がはっきりと感じ取れるのです。
皆さんおそらくご存知だと思いますが、ゴダールの映像作品はよく時期別に分類されます。つまり、ヌーヴェルヴァーグに始まり1967年までの時期、政治的時期、ビデオ制作期、商業映画への回帰の時期、映像による試論的作品の時期。そしてこの分類は現実に適ったものです。と同時に「映画は何の役に立つか」というあの問いかけは、この全ての時期を経て最近作に至るまで、品を変え形を変え常に存在し続けてきたのです。
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